書窓風景

読書人のブログ

馬場孤蝶『文藝作品の検閲』(感想)

北村ミナ先生の記事を目当てに購入した『早稲田文學』第三十二號(明治四十一年七月発行)に収録されていました。

大陸文学の英訳出版者として有名なビゼッテリーさんが、ゾラ作品の出版で裁判沙汰になってしまったことを書いています。
告発した者も裁判官も文芸を全く理解しておらず、オリジナルを読むことすらできないくせに開かれた滑稽な裁判で、どこそこのくだりが 風俗を壊乱するだのなんだの言われて困ってしまったという話です。
しかしながら、その後英国におけるゾラの名誉は回復し、どしどしと作品が出版されるようになりました。

孤蝶曰く、

要するに吾々から見ればゾラの著作の発売禁止に関する裁判は至当な所置であるか否かは措いて、当時の裁判官及び弁護士など云ふ者が如何に文学を解しえなかつたか、如何に不完全なる知識の下にさう云ふ裁判を下したかと云ふ事がわかる。
多くの場合裁判など云ふものは、余程うまくやらないと形式に流れ易い者だから、殊に文学が人心に与へる影響に関し裁判を下すと云ふ場合になつて来ると、裁判官及び弁護士が第一に芸術がよく分かつて居ないといけないし、なほその上に広い人生の知識、語を捴へて云へば充分に人情に通じて居なければいけない。

とのことです。
また、とあるシーンの台詞が風俗に反するといって発売禁止になった日本国内の書物にも触れて、

これ位な事を云ふのは世間に有り勝ちな事であるから、さう云ふ事をやつてる奴は昔からやつて居ようし、それを見て今からやらうとする奴がその小説を読んだゞけでどん\/殖える気遣ひはあるまいと吾々は思ふ。

とも言っています。現代にも通ずる部分がありそうですね。

最後に、少し長いのですが、印象的でメッセージ性の強い締めの部分を引用します。非常に考えさせられる意見です。

であるから、政府の役人が想像せられる如く文芸がさう\/普通の道徳行為に影響するやうな事は少ないのである。今の学生の風儀が乱れるやうになつたのではなくして、社会の進歩から教育の範囲の拡張から風俗の悪い人まで学生になる事になつたのである。所でその風儀の悪い人間が皆堕落してしまふかと云ふに、さう云ふ人々のなかからでも、教育の結果で風儀がよくなつて立派な人間になるのはいくらもある。であるから、このまゝで進んで行けばだん\/風儀の悪い人間は減つて行くわけになる。教育は云はゞ薬である。いくら薬がよくつてもお医者がよくつても救はれない病気があると同様に、如何なる教育の制度を以てしても、如何なる教育家を以てしても、その学校なりその教師の下から堕落した人間を一人も出さぬと云ふわけに行くものではない。だから少し位学生の中から悪い奴が出たところで少しも恐れるには及ばぬ。吾人の考では善人が社会にないと困るように悪人も少々ないと甚だ困る。世間の事はさう窮屈に考へてはいかぬものである。人間を扱ふ裁判官或は政治家などは、さう云ふ点に充分注意をして貰ひたい。