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星野天知『紅閨の燈火』

※以下の文章は、明治二十七年九月発行の文學界に掲載された星野天知作『紅閨の燈火』を、一部旧字体新字体に改めたり、原文にはない句点を補うなどして読みやすくしたものです。作品を広く知っていただくために、素人が趣味で打ち込んでいるものなので間違いがあるかもしれません。原文は筑摩書房から出ている『明治文學全集32 女學雑誌・文學界集』でも読むことができます。

紅閨の燈火

 袖は露がぬらすといひ露は袖がぬらすといふ。ふるればこそ露も砕けくだければこそ袖もぬるゝものを、誰かはこゝの境を知らん。
 ことし此露袖に砕けて吾が庭を湿ほすに、其所より白く美しき花生ひ出たり。類ゐなく見えしかば絵にも写し採らんと日に/\筆とりて出て見るに、此花何故にや見る毎に変りて常の形なく、辛ふじて輪郭をまとめ第一の花びらを描きつ。やゝ第二の花びらに筆を染めんとすれば、第一のものは早や変りゆきて描き直せども/\写し難し。蝉の羽のように薄く透りて雪よりも白き花びらの輝くばかりに見へしかば、押ひらきて内のさまも見んと指をそと触るゝに忽ちうすべにをさしたらんようにさと赤らみぬ。こは怪しと尚開き見るに、中はうす紫なるあり紅梅なるありときいろ萌黄うす藤など匂ひこぼるゝまでにいろ/\染め出たり。蕋は鮮やかなる紅ゐにてこぼれんまでの露をたゝえつ絶へず動きて風にも堪へぬさまなり。其動くやかすかなる風のぬくみかはた蝶蜂の羽風にゆら/\と靡くさま優にあはれない。
 たゞ何事をも思はぬまでにまぼりつゝ筆とり落すも知らざりしに、其しべ漸く大きう成りてやがては人の出入するよふ成りけり。吾れはよろづの事思ひ忘れて身は煙のように其中へと歩み入りけん。忽ちまばゆきまで珠をちりばめたる金殿へと入り込みぬ。こう/\たる殿中のさま物静かにして人のけはひ更になく、しはぶきさへも響きぬべし。一室を越ゆれば又一室、仙境にありといふ殿めきて香木異草庭に満ちたり。長き朱の廻廊をめぐりてをぼろげながら歩みゆくに奥殿めきたる處へ出でぬ。何となく心咎むるようにてあたりに憚る心もするなり。されど一歩踏みこみしからは今更のがるゝ路あるべきや、往くまでは行くべし歩めるかぎりは歩みても見ん。人に逢へばこちより捉へてやり、見つかりたらわれより叱りのけん。苟且にも心臆したるは吾がきぬの賤しくて此殿にふさはしからず思ひしに由らずや。さらずば吾魂の尊きを忘れて金殿に住み得ぬものと自ら卑しめし怯気ごゝろにあらずや。浮世はこゝろをなやますか、こゝろは浮世を悩ますか。果敢なきを観ずるは人の心なれどはかなきを頼むも人の心なり。敝衣何ゆへに金殿に臆する、破窓何ゆへに錦衣におぢるか。汚血を金殿に塗り醜塊なほ錦衣に誇る世のさまなるに、吾れ敝衣なりとも金殿にほこるに足るべく、吾れ俗骨なりとも此仙境に愧ることをせん。何事も心弱くてかなふべからず、顧るより先づ勇徃せんとこゝに首をあげて扁額を見れば、玉寝宮と読まれたり。錦の幕ふかく垂れて燈火あかく漏れ出でぬ。蘭麝といふものゝ馨りさへ身を襲ふて心ときめかずといふことなし。密かに幾重の幕をひらきて身を深く忍ばすれば奇しき仙気膚にしみて綾の紅閨たゞならず見ゆ。屏風のかげより恐る/\閨の内を窺ふに思はず一歩退きたり。そは妙齢の御姿、此世のものとも思はれぬ美形の横はり給えばなり。

  あてやかなるおもてを惜げもなく燈火におし向けてすや/\と眠り給ふは、いかなる香世界に遊び給ふか。暑くおはせばや天女の翅のようなる白き薄ものに真紅の御肌着をすかさせ給ふてわざと覆ひものを取のけたり。羽二重ぎぬの富士額にふツさりと乱れこぼるゝ黒髪の下よりなだらかなる濃き眉の遠山がたに現はれて、開かばいかに人を悩ますらんと見ゆるまなじりも美くしく、鼻と口の尋常にしてひきしまりたるも見ほるゝばかりなるに、ほんのりと紅さす頬のあたりより頤にかけての肉着き得もいはれず。なり恰好の小さきも一しほ可憐なるに、手足のつまはづれは名工の石像にも似てあえかなること言ふべからず。暫くこれを見る程に浮世ごゝろを忘れ果てゝ天の美禄に酔ふにも似たり。人とも思はれず神とも思はれず、たゞ心のすが/\しくなるようにて想ひも清く胸の野心も拭ふが如し。
 いかなれば斯くいみじきものありけるよ、怪しき光りを放てる此燈火のゆへにはあらずか、余りといふも余りにて疑ひの心も出で来るなり。足を忍ばして燈火に近付き見るに、まどかなる火燈しにて両面に水晶の板をはめたり。ひとつらはつゆ曇りなき無色のものを用ひ、一面は黒く透きたるものを用ひたり。今閨を照らせるは此鮮やかなる無色の方にてありし。燈油は血のように赤くて沸きあがり焔ほはすさまじく五つの色に燃えたり。五十本の燈心危ふくも燃えゆくに之れを辛ふじて抑ゆる重子とも見ゆるものはさま/\なる『希望』といふ字を写し出したる鏡のようなるものなり。なほこれをつら/\見るに赤き青きくろみどりなる、或は黄なる紫なる、いろ/\に燃えあがる炎ほの真中に鋼鐵を熔したるやうなる色にて『運命』と読まるゝほのほは焔々と燃えて、五十の燈心を燒きては灰と為し塵埃と為し、たゞ一縷の白気其たびに登り去りて油も其きわに煮えあがりては又空しく燈心を浸すのみ。何とはなく吾身を嘲けらるゝやうに人の世をも顧みらるゝなり。

  目も射らるゝしろかねのようなる無色の光りめでたきに付けて、此黒き方はいかに照らすらん試みばやとの稚児ごゝろ止み難く、火燈しをふりかへて閨に向ればこれも昼よりあかく照らしたり。姫はいかなる寝姿にておはすらむと見るに、あなうたてや、美しき衣と見へしは荒たへの破れきぬにて、あえかなる姿はおどろ/\しきものと成り、形相すべて舞樂の鬼女といふ仮面のようにて、嫉みのまなじり謗りの口もと忌まはしく裂けあがるに、額に邪慳の角生ひ出で髪は千線のくちなはと成りて舌を吐くもすさまじ。翠帳紅閨すべて地獄の絵巻物にあるものを活し出して永遠不滅の硫黄の火も燃ゆるよう見へたり。身の毛いよ立ちて魂消ゆるように身は震はれぬ。たゞ怖れにおそれて今更爰に入込みしを悔ひ、足をそらに遁れ出んと踏出しが先きに火燈しを動かすとて血の油を僅に指に染めたるもの、爰に一髪のきづなと成りて心曳かるゝようにふり返り、『希望』といふ字の今一度見たくて又もとに歩み帰りつ。再び火燈しをふりかへて無色なる方を閨へと向けぬ。火は動かす毎にます/\照り出でゝ暑さも室に満ちぬべし。おそろしきものは尚ほ見たく姿はいかにと窺へば、こは又怪し。いつかは元のあえかなる姫と成りて尚ほうまゐし給ふなり。身をやゝ近付けてほれ/\と見る程に、姫はねやの暑さにいぎたなく、眠りしまゝに帯ひき捨てゝ白きうすものは更なり燃え立つ斗りの緋の下着さへ掻やり給ふ。知るや知り給はずや、おしげもなく玉の肌を現はし給ふて人憚らぬ御寝姿、さすがに打愕くまで思ひ惑ふて一たびは遁げ出しが、又更になつかしくてそと立もどり見る。雪より白く輝きし御膚さへあるに、ふくよかなる肉つきなよゝかなる骨ぐみいづれか配合よろしからぬはなく、目もくらみ骨もとけ、ひたぶるに胸とゞろきて唾を呑みこむばかりに血は昇りぬ。人ならば人にてもよし石ならば石にてもよし。神にても魔にてもよし。いかで神を宿せる皮肉ならずば此こう/\しき美を現はすべき、先きには魔にしてこゝには神なり。此の燈火のなぞ怪しきや、いづれ女神に魔の宿るものか魔にこそ女神の宿るにやあらん。さりとも此燈火に神と魔との照らすものあるに由るか、姫のおもてはいよ/\輝くように照り始めぬ。
 あらゆる汚れの塵は皆照り消されて俗気は骨より拂ひ去られ、たゞうつゝ心に分くよしもなく、膚が美なるか美が膚なるか、はた又吾れが美なるにあらずや。此美この心に宿りて更に此美を描かば、いかに天魔地魅を愕かしいかに世の醜鬼穢賊をや恥殺せん。筆はあらずか紙はありや、一代の名画此機に成らざることのあるべき。萬骨は尚砕かるべし一代の気魂やわが亡びんやと傍へを見れば、真珠の硯に珊瑚の筆さへ建てられたり。取りあげ見れば軸に白き文字ありて『此筆舐めれば人界に堕落せん』とあり。吾れは人間なるを欣ぶにこゝは人界に堕るを悲むか。イデンの園の栄華をなほ吝みて濁水を呑むの勇気なきか『死』といふ門開かれてよりなべての人界に眼は明きぬ。罪の木の実に憂きは増すとも是が為に又此神姫を見るを得たり。吾れは人間なれば更に又堕落することやある。去りながら今こそ此美宮に入込みては暫し神とも成りしに非ずや、胸に人ほどの汚れも去りしは仙者と成りし故にあらずや。舐らぬにますことなしと思ひ定めつ、意気ます/\昂りて美の神をも愕かしつべく、気焰天宮をも衝かんず勢もて硯に呵し筆を叱すれば、見る/\乳房のむッくりしたる、肩先き胸のいき/\たる、心に応じて筆に落ればいよ/\満肚美に溢れて阿吽の気息音もせず。腹のあたりふくよかなるいしきのほとり豊かなる、ます/\描きてます/\神ほねに入り、身はいづこに在るを知らず。我は宇宙に満ちひろごりて画面おのづから肉動くに似たり。一気更に呵して思はず墨を含みつゝ更に筆を舐る程こそあれ、心俄にむら雲立て悪酒に酔ふたる血の如く、胸は早鐘のように気は荒立ち満身情火燃えて筆噛み砕き、つく/\見居たる姫の膚に狂ふが如く近付くよと見ゆる。物をも言はずひしと抱き着き情火の膚を触ればやと一指先づふるゝや否や、怪むべし天地鳴り動きて天柱地軸も一時に裂けん斗りに震ひ出て、白気殷々と閨に立登りて身は千里の外に投げ出されぬ。

  狂乱煩悶の心やゝ鎮まりて目を開けば、身はもとの吾園に倒れ伏し、かの怪しき花は凋みてうなだれたり。手には尚ほ珊瑚の筆を握り居るにぞよろづ現のように思ひ乱れぬ。さるにても惜しきは書きさしたる彼の画なり。神韻凝りて百代にも流れつべき気機は得たるに人の心の獣にも似たるよ、身は神宮に没しながら烈しき美の神の戒めを破りてこゝに純美の境を失ひしか、一顆の木の実を喰ひしも一管の筆を舐りしも神の怒りや同じきか、罪といふもの抑/\皆かゝるものにあらずや、思ふに此筆こそ浮世の白壁に『罪』といふ字を書きそめしものなるべし。憎き筆よと噛砕きてひき抜き捨て、舌にふるゝまゝふツと一ふき吹けば墨滴飛びて凋みかゝりし其花を染めぬ。誤ちせりとあはたゞしく拭ふに消へず汚点はながく止まりて皆『罪』といふ字に現はれたり。愕くまで哀れにてさすが悔ゆる心も出て、持たる筆の管を捨ればから/\と音して中より小さき鐵ねのまるけしもの転び出でぬ。取りあげて見れば毛彫りのような文字見へてPassionとこそは読まれし。(完)