書窓風景

読書人のブログ

坪内逍遙『半ば意識しつゝ見る夢』

※以下の文章は、明治四十一年七月発行の『早稲田文学』に掲載された坪内逍遙作『半ば意識しつゝ見る夢』を、一部旧字体新字体に改めたり、かなに置き換えるなどして読みやすくしたものです。作品を広く知っていただくために、素人が趣味で打ち込んでいるものなので間違いがあるかもしれません。また、明らかに誤植と思われる箇所はブログ主の判断で訂正しています。(開いた括弧が閉じられていないところもありますが、どこで閉じればよいか判断しかねましたのでそのままです)

半ば意識しゝつ見る夢

 幼少の時に見る夢と丁年以後に見る夢とは誰れでもちがふに相違ないが、不眠症に罹つて以来の僕の夢は一種の癖が附いたやうに思ふ。此世智辛い世の中に夢の話でもないが、多少今の文藝問題に相交渉する所もあらうかと思ふから、話して見よう。
 誰れでも幼少の時にはどんな奇怪な夢を見ても、少くとも見て居る間には先づ夢とは心附かない。すなはち現と信じて見る。自意識の大きに発達してからは、夢も次第に穏かでなくなる所から、夢の最中に夢だなと心附くことが多くなる、で夢が早く破れる。これは当り前の事だが、僕の場合にはそいつが少しくこぢれて、癖がついて、或場合には半睡半覚の有様で持続する。夢だわいと心附きつゝ見続けてゆくと半分は自分の心のまゝの如く、又心のまゝでないかの如く、一種変妙来な塩梅に変化してゆき、最後にジメ/\とたはいもなく破れる。これが最後になつては最も激しくなつて、苦しくてたまらぬこともある。例の眠られないので、どうかして眠らう/\と苦しみ、うつら/\と煮え切らん夢心地になる経験からはじまつた癖で、時としてはをかしいにとゞまることもあるが、多くはうなされ気味、しかしすぐに夢と心附くから、自分で醒ます。近ごろはうなされるに至らぬうちに醒めてしまふ、いや醒ましてしまふ。この心持、これが(委しくは後に言うが)ロマンチシズム対自然主義の問題に触れて居ると思ふ。
 次に――如何にも突拍子もない夢を見て目が醒める。さあ、それからはまぢ/\と気が澄んで眠られない。つい考へはじめる。どうしてあんな夢を見たかと其晩又は其日に起つた出来事を回想しはじめる。大概は当りがつく。今までの経験では先づ全く当りのつかぬやうな夢を見たことはない、而も翌日になつて考へたのではどうしても因つて来る所を探りがたいほどに飄逸(とぼ)けた夢、奇怪至極な夢を見ることもある。世間には心理学者も説明しかねるやうな怪夢、昔所謂正夢といふやつもあるらしいが、蓋しそれは例外の例外で、大がいの人間の見る夢は因つて来る所の明らなのが多い。只其時の心的状態がおちついてゐないか、程経て因果の緒(いとぐち)を見失なつたかで、分らなくなる場合が多いので、或人々は今も尚夢を全然不條理なもの、又は時としては全く神秘なものときめてしまふ。これと似た事が現にもある。宇宙の大はしばらく措くとして、人生に関することが多少これに似てゐはせんか。如何にも其根底には大いなる神秘が厳として横はつてゐることは否みがたいが、所謂神秘好が神秘々々とおしならしてしまふ程にそれ程にザラに神秘ではないと思ふ。少しくおちついて思索すれば歴々として因縁果報が指摘し得らるゝことが多い。夢と現と豈軽々しく分つべけんやなどゝ思ひ出すと尚眠られなくなる。これが第二の癖。
 それからもう一つ。
 いやそれを話す前に先達て見た比較的筋の通つた馬鹿々々しい夢の話をしよう。半意識しつゝ見る夢の適例だと思ふから。もつともこれには由来があるから、つまらんことながら聴いてくれたまへ。
「実は此三月以来余暇を利用して例の舞踊劇の思ひ切つて夢幻的な奴を作つて見ようと思ひ、例の白面九尾の玉藻の前の伝説を調べはじめ、彼の安倍の康成に祈り伏せられて清涼殿に黒雲を巻起し、これを駆つて飛去るあたりを見せ場に使はうと案じはじめた所、さあ、どうしても趣向が纏らん。考へかけては棄て、案じかけては打捨り、一月ほど経つた。只阿呆の楽園式に筋を立てるのなら容易いことだが、在来の夢幻劇とは魂だけは全く入替へようとする所が、それがこじれはじめて、不眠が愈々募つて、或時三四夜つゞけて苦しめられた其の揚句、或夜二時を聞き、三時を聞き、四時を聞いた。もう考へる気などはとうに無い、只眠られんので苦しいばかり。そのうちに、やつとうと/\となりかけたが、また忽ち現に帰つて、嗚呼もう眠つた所で二時間とは寝られん、……明日は八時から学校のある日だ、七時前には起きねばならん……などゝ、思ふうちにうつら/\と寝入つたらしい。
 すると、いつの間にか自分は十才ばかりの少女となつて、垂髪で十二一重に緋の袴といふ打扮で、さめ/\゛と泣きながら(ほんとに涙を流してゐたかと思ふ)どこを指して行くのやら、只ひとりで行く。その道筋が妙で――何でも幅一間以上もあらうと云ふ長廊下――両側に部屋があつて、右手は記憶せんが、左手は十畳敷以上の室が幾間も学校の教場式に連なつてゐて、廊下なども奇麗に拭掃除が出来て居て、室も奇麗で、そこには老いたる若きまじりで婦人が大勢ゐて仕立物をしてゐる。少女に化けてゐる自分は一体何を悲しむのかといふと、不言不語の間に自分に一人の競争者があつて今度同じく玉藻前の扮装をして舞踊劇を演ずるのである、その衣装が格外に立派なものでとても/\衣装の点で競争が出来ない――(こんなやうな感じは性来嘗て何事につけても抱いたことがないから妙だ)――それが悲しいと斯う感じているらしい。この仕立物をしてゐる連中も其競争者側の者らしく(これは明瞭とは意識してゐなかつた)自分は恨めしさうに横目でそれを見て、其長い/\廊下をやつてゆき、やがて突当つて、右手の方へ曲がった――と思つたら忽然として局面が変つたらしい。いつの間にやら自分は少女ではなくなつた。不断の自分だ。無論泣いてなんざゐない。併しヤハリぶら/\と考へながらやつてゆく。「はて何としたものであらう。どうしても名案がつかぬわい。何かうまい趣向はないか。兎も角もあの女に遇つて聞いて見よう。」こゝであの女と指したのがをかしい。年ごろ七十位の、白髪の茶筅の、被布を着てゐようといふ老女。それが何処だか知らんが、やゝ都離れのした処に娘がたしか二人あつて住んで居る舞の師匠なので、僕の親類だ。(ト夢の中で思つたが、親類にそんな老女なぞは一人もない。地方の踊の師匠に回縁の者はあるが、まだ年は四十二三で、そんな娘などはない)。「あの師匠の舞は僕の好かぬ本行そつくりを俗曲に焼直した行き方で甚だ妙でないが、併したしか能の『殺生石』を翻案して拵へたものがあつた筈だから、とにかく参考に見て来よう」と考へ/\行く道筋が、左右は広々とした水田と云ふ田舎道。
 ややあつて摂州湊川の堤に似た所へ出た。おや/\、こんな処ではない筈だ。はて方角がつかなくなつたと不審に思ひながら、あちこちと廻り廻つたと思ふうち、ひよいと奇な景色の処へ出た。正面は樹木鬱蒼として生ひ茂つて――丸で森のやうに――太い幹が並んでゐる間から奥が透かせたやうだが、何が見えたか記憶しない。奇怪なことには其の木が皆水の中から生えてゐる。森の手前は一面に清らかな沼で、僕の立つてゐる足元まで水がピチャ/\ピチャ/\と来てゐる。右手はたしか田圃らしかつたが、左手には一軒の草葺の農家らしいのがあつて、何やらの生垣、田舎びた折戸まで附いてゐて、中には年増の女がゐる――と頭から想像して居た。
 これは妙な所へ出た。元来た時にはこんな所はなかつたがと思ふトタンに飛び込んで来たものがある。年ごろ三十前後のイナセな男――別当らしい――目くら縞の半纏股引、足袋跣足と云ふ扮装。「お別荘はこちらですか」と農家に向つて叫ぶと「あのお催しですか」と年増の声。「えゝ、田邊さんで。」(たしかさう云つたと思ふ)。「それなら、そこを渡つていらつしやればよい」といふやうなことを云つた。別当は其儘沼へ足を踏み入れたが、ヒョイ/\と渡つて森の中へはいつてしまつた。これはと思つてよく見ると、不思議や其沼の中に今までは気が附かなんだが黄金色に光る飛石がチャンと出来てゐるので、それを伝へば水は足の甲をぬらさぬほどだ。

  一寸断つておくが、此夢の話は寸分の拵へ事はない。目が醒めた時すぐに手帳に大要だけ書きとめたまゝである、しかし其の書く時分に処々細い点は忘れてしまつた。

 僕はふつと思つた。あゝこりや何か趣向だなとさう思つて又見ると、今までは目につかなんだが、沼の水ぎはに根府川石の大きな碑が立つてゐて、それに漢字で妙な文章が刻してある。さアその文句だが、その時には読んだ積りだつたが、元より無意義な文章なのでおぼえて居ない。何でも冒頭は十二三年といふので結末の一字が邊の字であつたことだけはたしかだ。こりやまるで野馬台の詩のやうだ、どうしたことだらうと思つてゐる最中に、バラ/\と又二三人駆けて来る足音が聞こえた。自分は其の時こちらへ避けたらしい。
 と見ると、いづれも二十三四の青年で、先に立つたのは洋服姿、後二人は日本服で書生風であつたと思ふ。「どこだ/\。ばか/\しいぢやないか。たゞ田邊ぢやわかりつこはない。全体唯人を呼んで置いて場所を知らせん奴があるか、失敬ぢやないか」と声々に罵つて腹を立てる。と、そのうちの一人が碑に目をつけ、「や、こゝに変なものがある、こりや何だらう」といふと、皆一度にそこへ寄ッたかつて頻りに首を傾げながら読んで見る。十二三年までは意味は通じるが、後は分らぬらしい。そのうちに一人が益々腹を立つて「遠方の処を引つぱり寄せておきながら、こんなに吾々を困らせると云ふのは無礼だ、とりもなほさず吾々を侮辱するんだ。帰らう帰らう」と云ふ。
 さてこの青年等の問答のうちに、たしかに煩悶とか自然主義とか云ふ言葉が交つて居たのだが、どういふ関係で用ひられて居つたか、又どんな事を云つたのか覚えない。畢竟目が覚めた時には碑文に重きを於て居たので、その文句を思ひ出さうと気を揉んだ結果、この邊の問答は忘れてしまつた。兎に角この問答を聞いてるうちに僕の心にフッと浮んだ「あゝ、こりや、園遊会だな。此屋敷の主人がキットこりや洒落者だ。園遊会に客を招いたが、当り前では面白くないから、故意と別荘の番地を知らせず客の智恵に一任して探し当てさせようとするのだ。先刻たしか田邊と云つたが此碑文の末の字が「邊」とある、十二三年は吉の字に当る――(この邊が又曖昧だ、何故十二三年が吉の字に当るかわからぬ)――だからこれは田邊の別荘といふ知らせだ。(吉の字と邊の字との関係も何かあつたが忘れた。)しかし此青年連は現代の人だからわからぬのは無理もない。こりや教へようか知らと思つた。が又考へ直して、教へちや折角の趣向の底を割るやうでわるい、まア様子を見て居よう。トかう思つて居ると――此間三人は何して居たか記憶しない――一人が碑の謎を読み得たらしい。「こりや趣向だよ、主人の洒落だよ、嘲弄ぢやあない」と云ふやうなことを云つて外の二人をなだめて居る。すると外の二人は腹を立つて「その趣向といふ事が癪にさはる。洒落とは何だ。人を弄ぶは不埒ぢやないか」と議論いよ/\烈しくなる。こらへ切れなうなつて僕は仲裁に入つた。「諸君が腹を立てるのは無理はない。併しこれは文化文政頃には普通の事で、所謂江戸趣味といふので、そのわけはかやう/\――何でも此邊で自然主義論に触れる事があつたと思ふが記えない――つまり此長談義で三人の青年はどうやら、心が釈けたらしい。
 と、突然僕は直ぐそまに居た洋服の肩へ手をかけ、耳の元へ口を寄せて沈んだ調子で「時に君、此趣向の全部を僕に呉れたまへ」と云つた。すると、三人は如何にも驚いた顔をして、何とも答へない。「外ぢやないが、此場面は新派の幕開に最も妙だ。よく本郷座あたりで園遊会の場を序幕に使ふが何時も紋切形で甘すぎる。同じ園遊会を使ふにしても、かう云ふ趣向の園遊会にして、それも丁度君達が江戸趣味を解しかねて腹を立てゝ居る所なぞから始め、それが廻ると園遊会の舞台面などは珍しからうと思ふ。是非くれたまへ。その代り君達は全く無意識になつてくれなくちやいかん、さうでないとこれが只の写生で、僕のオリジナルな空想にならぬ」と云ひかけると三人は目を丸くし「無意識になつてくれとは何だ、僕等の自覚を奪ふと云ふことはない」と非常な勢ひで腹を立ちはじめた。すると僕が、いつにない真面目な沈痛な声で「君達は知らんか。君達が斯うして居るのは悉皆僕の力だぞ。僕の言ふ通りになつて居れば、これから朝まで二時間余の間に、まだいろ/\な事を見せて、五十年の命をも呉れてやる、が若し否だと云へば是れつきりにする」と云ひもをはらぬうちに、洋服を着た一人が他の二人に目くばせをしたと思ふ間もなく「やっつけろ」と云つたかどうだか、立ち所に短刀をキラリぬいて僕の胸倉を取つた。他の二人もたしか左右から手をおさへたかと思ふ。起きて居る僕なら無論逃げ出したらうと思ふが、不思議に平然たるもので、おしつけられながら冷笑の態度で、洋服姿の顔を冷かに睨んで――その洋服の顔は今も目に残って居る、痩せぎすな、面長な、眼の馬鹿に大きくつて、どこやら日本人らしくない顔付――「何をする貴様等は、厭だと云へば貴様等の命はおれの一呼吸の間にあるぞ。おれが一つ声を立てれば貴様等は消えて無くなつてしまふんだ。」「何を」といふ勢ひで短刀を突きつける。「突くなら突け、声をあげるぞ――」といふと、向うはチョイとひるんだ。で我れ知らず声を放つて「京伝の黄表紙にもない――」と叫んだと思ふと、三人の青年がフラ/\と僕の傍を離れて右に一人、左に二人、ヘナ/\と靡いたと思ふうちに、雪達磨が消えるやうにジメ/\となりさうになつた。「おのれ逃がしてたまる者か、まだ用がある」と飛びかゝつた――のではない――心の中で取捉まへて、こりや面白い序に何か神経不思議な妙な形の物を作つてくれよう――といろ/\に骨を折つたが、さて如何しても顔が出来ぬ。腰から下は女になつたり、エタイの分らぬものになりかけたりしたが、顔だけは出来ぬ――と思ふうちに目が醒めてしまつた。
 さて、たわいもない長話であつたが、見様によつては、これに多少の意味があると思ふ。その前日に於ける僕の心的状態と無関係で此夢を考た時分には、その由来する所が如何にも不思議だが、醒めた当時すぐに因縁を探つて見たので大概は歴々として辿られた。先づ全体の筋が変幻を極めて居ると同時に多少筋が通つて居て流石に普通の夢とは同じでないのは、これ僕の頭が恰もこの類の作をしようと思つて居たからで、玉藻前が劈頭に現れて来たのもそれが為め。十歳の少女は僕の女(むすめ)で、それが十二一重を着て居るのは嘗て「鉢かつぎ姫」でさういふ服装をさせたのを連想したのであらう。衣装の競争云々は多分少女の情に同感する所から生じたかと思ふ。舞の師匠が白髪の茶筅なのは丁度其頃毎日派の劇評で見た久米八の微妙を舞の師匠と云ふ点から連想したらしい。娘二人云々と能がゝりとは嘗て宅へ招いた事のある泉祐三郎親子を連想したのである。湊川は思ひつかない。樹木鬱蒼は主として宅の庭からの連想で、水がピチャ/\は丁度その晩雨が降つて耳元へ雨垂が落ちて居た。野馬台の詩は「三国妖狐伝」に吉備大臣のことが出て居たので思ひついたらしく、江戸趣味、自然主義云々は云ふまでもない。馬丁も思ひ出せぬ。三人の青年の中の目のギョロリとした洋服は学校通いに屡々出遇う清国人、言葉が通じるやうで通じない所が眼目。他の二人は普通の学生、併し後に短刀を擬する云々は新聞紙に見えた悪書生から連想したのらしい。「朝まで二時間」云々は「あゝもうあと二時間と寝られない」からの連想。新派幕開だの自意識を奪ふ云々など皆一々説明は出来るが、管々しいから省く。
 さて以上を総括して考へると、始め無意識で見かけた夢を半意識して持続し、半無意識にしてこれを作為する事が出来ると云ふ事、これが一つ。次には一見不可思議と見ゆる事もよく調べて見れば大概可思議であると云ふ事、これが二つ。最後に段々自意識が鋭くなつて来ると幼時の如く全然たる夢を見る事は出来ぬ、忽ち醒めてしまふと云ふ事、これが三つ。
 このうち、真中のは既に前に説明したから残る二ヶ條を現在の文藝界の現象に当てはめて見ると、斯んなことが言へる。もはや全然たる空想文藝は夢と同じ道理で、もはや今人を楽しましむるに堪へない。今の自意識の熾んな人々に取つては彼のロマンチシズム式の楽園に遊神することは出来ても長くは続かない。其作に魔力さへあれば随分暫くは夢心地にもならうが、やがてフラ/\ヘナ/\ジメ/\と、消えはじめて現に帰つてしまふであらうといふ事。次には作者の頭の働きも将来は大に変るだらうといふこと。西洋でも十五六世紀の頃若しくはずつと下つてロマンチシズム全盛の頃には。作者の多数は、且つ其の最も傑れた者ほど半分夢を見るやうな心持で作をしたものが多かつたのだが、今は次第にそれがなくなつた。日本に於ても元禄享保から文化文政時代へかけては出来上つたものが全然夢幻的であるのみならず、作者の頭の作用そのものまでが先づは夢心地であつたのだ。推理的、分析的に想を構へて行くのではなく、云はゞ牡丹の花などが次第々々にふくらんで一朝パッと開くやうな塩梅に出来る時には、作者自らも驚き訝るやうに一時にチョイと出来た例が多い。沙翁の作、近松の作の或部分はたしかにそれだと思ふ。批評するには此理を察しないで余りに理屈詰に、近代式に評をすると飛んだ道具はづれの評になる。十九世紀になつての沙翁評が大概イリホガの力まけであるといふのも此理に基く。まだ何やらこれについて感じたこともあつたが、余り暢気らしいからこの辺で止めておこう。(談話筆記)